はりぼうのほほん日記

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映画、ファッション、グルメが好きな大学4年生!基本日記と、めんどくさがり向けライフハックです。

「ふつう」なんて幻想だ/『コンビニ人間』感想

普通っていったいなんなんだろう。
どうして、普通にならないといけないんだろう。
多様性が叫ばれている世の中、だけど社会はずっと縄文時代だ。

コンビニ人間』が共感の宝庫だったので感想。
※面白かった引用に個人的な感想を付け加える、ちょっと不思議な書き方をしてます。

1.

母は懸命に、「いい、小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう?あっちでお墓を作って、皆でお花をお供えしてあげようね」と良い、結局その通りになったが、私には理解できなかった。皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。

これは、主人公が道端で鳥の死骸をみつけたので「焼き鳥にして食べよう!お父さんも妹も好きだし」と母のところに持っていったらたしなめられた、というシーンだ。
私はこれを読んで本当に憤りが隠せなかった。
この人たちは鶏を殺して食い、牛も食い、花をちぎって殺すくせになぜ鳥はかわいそうだと思うんだろう、気持ち悪い。
明らかに主人公のほうが道理にかなっているのになぜ変なものを見るような目で見られているのかもわからないし、誰かのペットのネコとかでもないその辺の鳥になんて大げさなんだろう。
おかしくない?なぜこうなるのかわかる人はぜひ教えてほしい。
因みに私はビーガンではなく肉を食べる。かわいそうだと思っていないわけじゃないけれど美味しいから食べる。
そのかわり、その辺の鳥の死体も美味しければ食べていいと思うしかわいそうだとは全く思えない。
人も動物もいつか必ず死ぬし、食べるために他の動物を殺しているような人間が、かわいそうだと思える筋合いは全くない。
フィクションだからこう、だとは思えない。
世の中では捕鯨禁止だとか禁止じゃないとか今も議論されている。
鯨は食べちゃダメで鶏は食べていいのは、鯨が知的な存在だかららしい。
小鳥さん(笑)は小さくてかわいいからかわいそうらしい。
人間の理論は頭がおかしいから笑えてきてしまう。

大学生、バンドをやっている男の子、フリーター、主婦、夜学の高校生、いろいろな人が、同じ制服を着て、均一な「店員」という生き物に作り直されていくのが面白かった。

コンビニでは均質な「店員」という生き物に作り直される。
でも、社会の中でも結局は同じことだ。
ただ、制服がないだけで、社会の中で「ムラの人間」*1に作り直される。
コンビニで、異質な存在(サボるし廃棄を盗むしあげく客にストーカーした白羽)は排除された。
「治る」余地のある人間は作り直される。
社会でも同じように、異質な存在(結婚しない男女、働かない男、正社員ではない30代以上、空気を読めない人)は排除される。
「治る」余地のある人間は、うるさく干渉したり叱ったりすることで作り直される。
この本の中ではコンビニは機械、コンビニ店員は機械の部品、というように表現されているし、実際マニュアル通りに動いていくその空間は機械に近いのだと思う。
”会社の歯車”という言葉もあって、企業も機械を比喩に使われている。
じゃあ、「社会」はどうなんだろう。
結局は見えないマニュアルがあってそれに沿って動いていくしかない。*2
そうできない人間は、排除されるか治される。
社会に人間性はない。
結局は社会そのものも、ただの機械と同じだ。
最近セクシャルマイノリティが受け入れられ始めているのも、マニュアルが更新されただけだ。
そんな風にマニュアルの更新がなくとも自然と受け入れられているのが、あるべき世界のはず。
世の中が多様性に寛容になってきているといわれているが、結局「今の時点で理解できるもの」に対して寛容なだけだ。
本当の多様性ってなんだろう。

「身内のなくなった人の前で”うちのお父さんは偉い人なんだ”と自慢していた」元次官長男は、壮絶ないじめを受けた。
人間は結局理解できないものは排除しようとする動物なんだろう。
白羽を見ていると彼を思い出す。
彼は誰かを必要としていた。一人でいるのが怖かった。孤独だった。
社会に受け入れてもらえない不満を、両親にぶつけていた。
社会の見えざる手に粛々と排除されていき、大きすぎる”社会”という存在には立ち向かえなかった長男。
そりゃあ一人で社会には狭義の意味ではあらがえないに決まっている。
社会は変わらない。
元次官長男に寄り添いたい気持ちになるのは、私だけだろうか。

3.

私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染しあいながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。

周囲の人に合わせて話し方や服装を変化させていく主人公の言葉。
実際、私もあなたも、周りの人と考え方や口調など影響を相互に与えあっていることが多いのではないだろうか。
少なくとも私は、アンダーグラウンド系のサークルに集っていた昔の自分と、いま清く正しく美しい恋人といる自分にはかなりの部分で変化を感じる。
ならやっぱり「確固たる私」なんてのはフェイクじゃないか、と東洋思想的なことを考えた。

4.

性経験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない私は、性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかったが、皆、私が苦しんでいるということを前提に話をどんどん進めている。たとえ本当にそうだとしても、皆が言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとはしない。そのほうが自分たちにとってわかりやすいからそういうことにしたい、と言われている気がした。

「メンヘラ」「LGBT」「中二病」…。
わかりやすい言葉ですべてをくくろうとしないでほしい。
そして、言葉でくくれなかったものを無視しないでほしい。
自分の安心のために、他人をこんな形で利用するやつはばかだ。

5.

皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢でうっとうしかった。あんまり邪魔だと思うと、小学校の時のように、相手をスコップで殴って止めてしまいたくなる時がある。

彼とは初めて会うのに、そんなに身を乗り出して眉間に皺をよせるほど、私の存在が疑問なのだろうか。

私も、そしておそらくこの恵子という主人公も他人に全然興味がないから、*3別に他人の存在とか他人の悪口が嫌なわけじゃない。ただ単純に、踏み込まれたり一挙手一投足に注目されているのが目障りなんだよね。
誰もが他人に興味津々だと思わないでほしいし、そもそもなんでそうなのか理解できないし、私は珍獣じゃない。

6.

「うんうん、誰でもいいから相手見つけたら?女はいいよな、その点。男だったらやばかったよ」

こういうことを言うやつが、男のことも女のことも抑圧する。すべての人間が気持ちよく生きることを目指すフェミニストの自分としては、こういうやつは嫌いだ。
でもこの人たちを排除することは”すべての人間が気持ちよく生きる”に適合しないから、この人たちの意識が変わることを願っている。
因みに私はそこまでする義理はないから、私の中で存在を抹消する。

7.

「え、自分の人生に観照してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」それは結局、世界を全面的に受容することなのでは、と不思議に思った

真面目な人ほどこの罠にはまる、過剰適応してしまう。二階堂奥歯さんも、この罠に足を取られたんじゃないかなと思う。
世界になじみたいのになじめない、そういう人たちが悩み苦しむんだ。次官の長男も同じ。
こういう真面目な人が、ほかのマイノリティを抑圧する。
似非フェミニストもそれに近いマインドを持っていると思う。
バカにされたくないと思うあまり、男敵視に走ったり、主婦を叩いたりする。
子供を持たない夫婦を異常に異端視する人々もそうだ。
しっかりしていない私に本気で怒って軽蔑してきた中学の同級生のあの子もそうだ。
彼女はまじめすぎた。
真面目な人ほど、外れるのが怖くて、そこから外れて平気な人を許せない。

まとめ

他にもたくさんマーカーを引いたけれど、書き終わらなくなってしまいそうなので割愛します。
私や恵子のような”社会も他人もわりとどうでもいい”人より、白羽や元次官長男、そして広義の意味で言うと二階堂奥歯さんや私の中学時代の友達、彼らのような”繊細で感受性も高く、本当は世界と同化したいのにできない人”のほうが苦労するし、叩かれやすいし折れやすい。
私は同じ側の目線から彼らをまもりたい。
「ふつう」なんて、共同幻想でしかない。
皆がこれが正しい、皆もそうしている、と思い込んでいることをすることで結果的にそれが「ふつう」になるだけだ。
貨幣が価値を持つ理由と似ている。
「社会」に実体なんてない。幻に負けないで。

*1:本の中でこういう言い方をされていたのでそのまま使いました

*2:しかもマニュアルが明文化されていないのが厄介。まあ、されていたとしても中高生の頃の私は特にそれに従おうとはしなかったと思うけど。ただ、干渉して来たり陰口を言ってくるクラスメイトの少年A、少女A(本当に今でも顔と名前がぼんやりとしか思い出せない)が邪魔くさかったから、奴らをどこかに遠ざけておけるならそうしたかもしれない。わからない。

*3:私はパートナーと親兄弟、友達には興味津々です